宮崎の地理(7)
 
横山 淳一
(宮崎大学教育学部助教授)

第6節 沖積層

 沖積平野とそれを構成する沖積層の一般的な説明は、「宮崎の地理(3)」(『みやざきの自然』第3号) で行っているので、ここでは宮崎平野、とくに大淀川流域を中心にその状況を具体的に述べる。
 広義の宮崎平野は、日向市美々津、東諸県郡綾町、宮崎市青島の三点を結ぶほぼ直角三角形状の区域である。総面積は800平方キロ程度で、県面積の10パーセント以上の割合を占め、平野としては筑紫平野に次ぐ九州第二の面積を有している。宮崎平野を地形的に分類すると、最大の面積を占めるのが洪積台地(3分の1以上)で、沖積低地、丘陵(各3分の1以下)となる。我国を代表する平野の一般的構成は、その多くが沖積低地の面積が最大となっている(例えば、新潟平野、大阪平野、濃尾平野、筑紫平野など)。この点で宮崎平野はかなり特異な性格の堆積平野で、平野内に多くの小起伏面を含んでいるといえよう。宮崎平野を指してときおり海岸平野と称することがあるのは、洪積台地を含むこれら地形の形成過程において地盤の隆起作用が継起したことを意味している。海岸平野という言葉は一般的には臨海の平野という意味合いで使用されることがあるが、地形学的には陸地の隆起もしくは海面の低下により浅海底の地形が陸化した平野を指している。これに含まれるもとの地形は海食台や浅海底堆積面、浜堤などであり、隆起した後に海成段丘化しあるいは浜堤列を海岸線に並行に発達させたりしている。宮崎平野の臨海部はこのような地形面がかなりの面積を占めている。ちなみに、地形面の割合において宮崎平野と類似の構成をもつ平野は、十勝平野(北海道)、三本木原(青森)、岡崎平野(愛知)などで
ある。
 したがって、平野面を沖積平野に限定すれば、宮崎平野の沖積面の広がりはさほど大きくない。さらにその堆積面は、それを形成させた各河川の下流域にそれぞれ限られることになる。具体的には、大淀川の沖積低地を最大とし、一ッ瀬川、小丸川のそれが続き、さらに清武川、石崎川など中小河川の狭小なそれとなる。さらに各河川の支流に沿う狭小な谷底平野もこれに含まれる。
 宮崎平野の地史を少しさかのぼっておさらいしておこう。今(第四間氷期:約1万年前〜現在) を去る第三間氷期(リス/ヴュルム間氷期:約13万年〜6万年前)に形成された古宮崎平野は、当時が今とほば同じ環境下にあったとすれば(今より暖かかったとする説もある)、細かい点はさておき、ほぼ今日と同じような平野の姿を現していただろうと考えられる。暖かい時代が終わり次第に環境が寒冷化に進むにしたがい(ヴュルム氷期)海面は低下し、もとの平野面の開析が始まると同時に旧汀線以下の浅海堆積面が陸化していった。つまり、開析三角州と海成段丘の成立である。大淀川などの河川は流路が海側へ延長され、より低下した海岸線に沿って三角州を形成していた。約2万年前は地球の寒冷化が最大に達した時期で、海面は今より垂直量にして約百数十メートルも低下していたと推定されている。当時の平野面は現在の平野面に現海面下百数十メートルの浅海面を加えて考えねばならない。この氷期には平野面であった浅海面は今日大陸棚と呼ばれており、日向灘沿岸の海底の地形面である。今日の海水準より高位にあった平野面はこの頃には平野の上流郡にあたり、洪積台地や段丘面の開析作用が始まっていた。このことは当時のこれら地形面の標高(当時の海面を海抜0メートルと考える)が、その後の地盤上昇を無視しても、約百数十メートル以上の高所に位置していたことを考えれば容易に想像できるであろう。また、これに伴って山地や台地面の末端部の谷沿いでは流下した土砂が扇状地状の堆積地形を形成していたであろう。大淀川本流そのものも低下した海水準に応じて現在の平野面にさらに深い谷を形成していたのである。また、第三間氷期以降、阿多、姶良、霧島、阿蘇火山を中
心とする活発な火山活動があり、それによってもたらされた火山灰層や火砕流堆積層が各地に分布していたことはいうまでもない。こうした地形環境が、第四氷期の急速な終焉に伴って、海進が進み沖積平野の形成という後氷期の時代を迎えたのである。

  宮崎平野の基盤

 宮崎平野の洪積層や沖積層など堆積層を取り去ると第三紀の堆積層からなる基盤の宮崎層群が現れる。具体的には、砂岩泥岩の互層で、日南海岸の青島などにみる鬼の洗濯板がそれであり、注意すれば宮崎平野各地の丘陵、台地面の傾斜部や段丘崖にその縞状の断面を見ることができる。沖積層は完新世(後氷期)の形成になるものであるから、これを取り去った後に現れる地形面は後氷期海進以前のほぼ更新世末の宮崎平野の状況を示すものといってよかろう。宮崎市の調査になる地盤図によれば、大淀川下流部の基盤
岩の形状は極めて興味深い。そこには、現在の大淀川の流路とは異なった位置に深い河谷−埋没谷−が刻まれているのである。沖積層をはぎ取っているからその基盤の地形の概略は等深線で示されているのであるが、かなりの部分がマイナス30メートル以内の高度に収まる平坦面を形成しているのに対して、古大淀川の流路と推定される旧河谷は、一段と深いマイナス50〜60メートルの等深線として深
く内陸に向かって舌状に入り込んでいる。その堆積谷は、宮崎大橋の下流約500メートルの高松橋付近(マイナス50m)からまっすぐ東に伸び、JR宮崎駅付近(マイナス60m)で方向を北北東に転じてさらに深さを増し、日向灘に向かっている。したがって、現在の大淀川の流路は古大淀川とは全く流路を異にし、これより後の時期に形成されたものといえよう。また、古大淀川以南の南宮崎方面の水系については八重川の前身に相当する深さマイナス30メートル以上の埋没谷が認められるが、これもまた現在の八重川の流路とはかなりの相違が認められる。このように、沖積平野形成以前の宮崎平野は、沖合いに広い平坦面を形成したばかりではなく、現在の平野面に当たる区域においては地形や水系が全く異なった状況を呈していたことがうかがわれるのである。

  宮崎平野の沖積層

 沖積層の一般的な構造と性質については既に述べたが、宮崎平野の沖積層はどのようになっているであろうか。例は宮崎平野の中央部地下の巨大な埋没谷を横断する地質断面図である。場所は宮崎市の下北方の台地面から宮崎市小戸橋付近に向かうほぼ北西から南東方向を経て、小戸橋から東の宮崎港に向かう断面である。沖積層は古大淀川の河床から現在の地表面までその厚さは60メートル以上に達している。そしてそれを構成する堆積層は下部より、基底礫層、下部砂層、中部シルト層・中部シルト質砂層、上部砂層、沖積陸成層の五層からなっていることがわかる。宮崎平野においても、層厚、構造共に日本の一般的な沖積層とさほど大きな相違はないようである。

地質断面図(外山秀一「大淀川下流域における古環境の復元」による)

 最下位にある基底礫層は、埋積段丘礫層と河床礫層とからなる。場所によって厚さは異なるが、2〜7メートルの層厚で直径数センチメートル程度の円礫からなる。この堆積層は、本来は完新世に先立つ更新世末期に形成された地層であるので、厳密には沖積層とはいいがたいが、沖積層の最下部に必ず存在が認められているので、沖積層に含めて考える場合もある。円礫の堆積は一般に河川の下流部には存在せず、中流域に多く見られるものである。したがって、基底礫層の堆積環境は、前記の深い侵食谷の形成と合わせてみると、臨海の平野面というよりはむしろ上流〜中流域の侵食作用が優勢な河谷を類推させるものであるといえよう。
地質断面図(外山秀一「大淀川下流域における古環境の復元」による)
 下部砂層は層厚2〜10メートル、厳密にはシルト質細砂層で植物片を含む粘土層が含まれる。この地層は、河成、湿地性の堆積物で、そこに含まれる植物片より約1、3万年前の年代が得られている。堆積層が礫から砂へという急激な変化は、地球環境の温暖化による海進の結果を示している。海進は古大淀川の深い埋積谷に湾入する形で進行し、晩氷期当時には既に約マイナス60メートル付近にまで海岸線は達していたと推測される。ちょうど現在のJR宮崎駅付近に湾入した汀線があった。最終氷期最盛時の海水準より70メートル前後の海進があったものと推測される。 中部シルト層は沖積層中最大の層厚があり、宮崎平野では下部の中部シルト層と上部の中部シルト質砂層からなっている。前者が約30メートル、後者が約10メートルの厚さがあり、この時期に至って古大淀川の深い侵食谷や古八重川のそれは完全に埋積された。下部の中部シルト層は暗青灰色のシルト・砂質シルトからなり、貝化石、植物片や火山砕屑物を含む。上部のシルト質砂層は、場所により砂質シルト、シルトのレンズ層が含まれている。シルトは砂よりもさらに小さい、しかし粘土よりは大きい粒径の堆積物を指す言葉で、これが大量に堆積した環境は海域を意味している。引き続き海進が継続してついには宮崎平野の大部分(現在の沖積低地に相当する区域)が沈水したことを物語っている。時期的にはほぼ六千年前と推測され、これは後氷期のヒプシサーマル(最温暖期)に対応する縄文海進と呼ばれるものである。したがって当時の海岸線は相当内陸にまで入り込んでおり、宮崎湾とでも称すべき湾入が存在していた。これを具体的に物語るのが貝塚の存在である。宮崎平野の貝塚遺跡は、宮崎市柏田、同跡江、同折生迫(松添貝塚、納屋向貝塚)、高岡町城ヶ峰の5ヵ所が知られている。折生迫を除いては宮崎平野のかなり内陸部にあって、沖積低地と洪積台地、丘陵地の接点に位置している。出土する貝類はすべて海生のものばかりではなく汽水域や淡水域のものも含まれるが、いずれの貝塚も下方の水域を見おろす小起伏地という点で立地が共通しており、ほぼこれらの地点まで海水が進入してきていたことが推測される。また、宮崎市の西方の糸原、浮田、柏原の各地点では地下4メートル前後の深さから貝化石を産しており、結果的に当時の海岸線は現在の標高で約8メートル前後にあったと考えられる。2.5万分の1地形図(図幅名:宮崎および宮崎北部)では、10メートルの等高線が記入されているから、これをトレースしていけば当時のおよその海岸線をつかむことができる。おおよそ七千年をかけて70メートルの海面上昇が生じたことになる。この間均一な海面上昇があったという保証はないが、これを1年の海水面上昇速度に直すと、1センチメートル/年である。また堆積層の形成の速度の概数も七千年に対し40メートルであるから、約6ミリメートル/年となる。この数値は極めて小さいように思われるかも知れないが、地盤の上昇速度1ミリメートル/年(この数値は地殻変動の数値としては極めて大きい)に比べると一桁大きい値で、海水面の上昇とそれに伴う沖積層の堆積作用がいかに急速に進行したかをよく示しているといえよう。
 ところで、宮崎平野では中部シルト層の上部は中部シルト質砂層からなっている。この時代後半において堆積層がシルトから砂へ移行したことは、海域が次第に埋め立てられて浅海化の方向をたどったことを推測させるとともに、この時期火山砕屑物の堆積が顕著であったこともあげられる。この当時において、沖積層として既に陸地化していたと推測される地形面は宮崎平野沖積低地の上流部に当たり、宮崎市有田、跡江、糸原や国富町岩知野などに分布する。大淀川、本庄川、深年川に沿う自然堤防状の微高地で、それにこれらの河川に流入する小河川の谷底平野が付随する。標高約10メートル以上の平野面であり、水利の点から水田に適さず、畑地として土地利用がなされている個所がいくつか見受けられる。いわば、沖積低地の上位面と呼ぶべき地形面である。
 宮崎平野の中部シルト層は沖積平野の一般的層序からいえばシルト・粘土層(中部泥層)に相当するものである。シルト・粘土層はその性質として、地耐力が極めて低く、開発上常に大きな問題となる地層である。地耐力は、標準貫入試験においてN値で示される。分かりやすくいえば地質のボーリング調査で、重量63.5キログラムの鉄製ハンマーを75センチメートルの高さから落下させ、地面が30センチメートル凹むのに必要とされる落下回数で示す。したがって、N値が大きいほど地耐力があり、小さければ軟弱な地盤ということになる。日本を代表する沖積平野においてはシルト・粘土層は、層厚約20メートル前後であるが、そこでのN値は大部分の個所で0を示すことが多い。N値が0というのは、前記試験において落下させたハンマーが地面の抵抗を全く受けず地下に沈んでいくことを意味している。地下の泥海としかいうほかはなく地盤としては全く耐久力を欠く最悪の地層といえよう。これに対し、宮崎のシルト・粘土層は下部の中部シルト、上部の中部シルト質砂層からなっている。軟弱な地盤の代表である厚い粘土層を欠き、シルト層も一部は砂混じりのシルトとなっており、一般的なシルト・粘土層に比べると比較的安定な地盤を構成しているのが特徴といえよう。そうはいっても、やはり軟弱な地盤であることはかわりなく、N値は中部シルト層で1〜15、中部シルト質砂層で4〜29と比較的小さい値を示す個所が多い。いずれにせよ、宮崎平野の沖積低地において下層にこれらの地層が存在する場合は、大規模建築物の支持基盤としては不適当で、さらに下層のより地耐力の大きい地層の支えが必要となる。ついでながら宮崎平野の下部砂層のN値は15〜38を示す。
 宮崎平野の沖積層中部の特徴はその堆積過程においてやや粒子の大きいシルト質や砂がちの物質が主体をなしていたことがあげられる。このことから推測されることは、宮崎平野では海進の速度と堆積の進行がほぼこの粒子の堆積という状態で均衡していた環境(前期の速度計算ではやや海進の速度の方が大きいが)であったことを物語っていると思われる。シルト層が堆積すれどもすれども、その堆積環境がいっこうに変化しなければ、継続してシルトの堆積は続く。堆積面の高度水準が堆積によっても変わらないということは、堆積による堆積面の高度上昇が海面の上昇によって相殺されていることを意味するのである。この均衡は、後に堆積層がシルトから砂に変わった時点で破られたことがわかる。上部シルト質砂層の堆積環境は宮崎湾がほぼ埋め尽くされて浅い入り江と化した状況を示しており、同時にこれまで継続していた海面上昇がようやく緩慢となったことも意味している。このころの宮崎平野の堆積面の水準は、マイナス10メートル以浅であって、既にかつての深い侵食谷があった当時の面影はない。旧河谷の存在していた区域には等深線で4個所の僅かな凹凸がみられるが、凹所はただ1個所のみで、かつての古大淀川の流路は全く姿を消して埋積し尽くされたことがわかる。
 上部砂層は層厚約10メートルで礫混じりの中〜粗拉砂からなっている。これにさらに北東部臨海に発達した砂堆を構成する砂層が含まれる。この地層は後氷期のヒプシサーマル(最温暖期)後の若干の海面低下に対応して堆積した砂層で、これによって宮崎平野沖積低地の大部分が陸化した時代でもある。また大淀川の流路が現在のように比較的南よりのコースをとるようになったのもこの時期以降であ
る。砂に礫を混じることから、上部砂層は扇状地性の堆積物であり、その結果地盤の耐久度を示すN値も18〜50と下層よりもかえって高い値に達している。海面低下によって陸地化した直後の平野面は基本的には東に向かって徐々に高度を下げる極めて平坦な地形面であるが、陸地化と同時に大淀川の侵食、堆積作用をこうむり始める。最終氷期には、高松橋付近で急角度に流れを転じていた古大淀川も、その河谷が埋積した以上そのコースを同じようにとることは不可能となった。その際注目すべきは、本庄川を合流した後の大淀川の流路である。東に向かって流下する大淀川はまず宮崎市柏田や下北方の台地面にぶつかって、そのコースを南に屈曲させられる。その後しばらくは南流することができるが、再び南宮崎福島町背後の丘陵に遭遇して東向方にそのコースを曲げられる。したがって、現大淀川の流れの方向を基本的に決定している要因は、介在する洪積台地や丘陵面の存在である。しかしながら、現在の河床に至る間に流れが常に一定していたわけではなく、さまざまな流路をとった形跡がある。それらは、一、ほぼ旧河床に沿い、宮崎市江平付近から南東方向に穏やかに曲流し、現存の新別府川に相当する旧河道、二、一よりもやや南で大淀川から別れて東流し、JR日豊本線以東で多数の分水路をもつ旧河道、三、下北方付近で南東方向に分流するものの、大淀大橋以北で再び本流に戻る旧分水路、などである。こうした流路を通じて多量の礫混じり砂層が堆積した。扇状地性堆積物であるので氾濫のたび毎に自然堤防及び後背湿地の形成が行われ、河床の水準が上昇するにつれ河道の移動を生じたものと推定される。
 いっぽう海岸に沿う砂丘(浜堤)の発達が始まったのもこの頃である。宮崎平野の臨海の砂丘は一般に一ッ葉海岸と呼ばれるものであるが、地形図で確認すると大きく三列の砂丘列からなっていることがわかる。最も内陸側の砂丘は佐土原町広瀬に始まり、宮崎市住吉の宮大牧場から村角町を経て吉村町に至るもので、全長約10キロメートル、最大幅約1、2キロメートル、最高標高約20メートルである。二列目は佐土原町から宮崎市塩路、市民の森、山崎町、阿波岐原町を経て新別府町に達する。長さは一列目とほぼ同じであるが、途中で数ヵ所の断続があり、幅、高度とも一列目に及ばない。三列目は一ッ葉海岸で、最大規模の砂丘である。一ッ瀬川から大淀川河口に達する幅約1キロで、最高標高は28メートルにも達している。
 砂丘を構成する砂はもちろん海水の作用によって運ばれてきたものであるが、砂自体のもともとの起源は川が運んできた砂である。この砂が沿岸流によって浅瀬に堆積して細長い砂地を形成し砂州となる。さらに堆積が進み丘状の高まりを形作ったものが砂丘である。またこの砂丘が卓越風の作用によって飛砂として均一な粒径の砂の堆積を続けた場合は風成砂丘という。宮崎平野の砂丘は、鳥取、鹿児島県吹上浜などのような季節風による風成砂丘ではなく、潮流によって形成されたものであるから風成のものほどは粒径が揃ってはいない。宮崎平野の砂丘列は、日向灘を南流する沿岸流と、一ッ瀬川からの砂の供給によって、また南宮崎におけるそれは大淀川の砂によって断続的に形成されたものである。最も内側の砂丘の形成は北からの沿岸流とそれにさらされない静かな入り江の境界線上で始まった。一ッ瀬川南岸において東方に岬上に突出する丘陵が沿岸流を遮る役割を果して、そこより南方に細長い砂州を伸ばしていった。内陸側の砂丘形成は、そこに含まれる最古の遺跡が縄文時代中・後期の平原遺跡であることから約三千年前には既に完了していたと推定される。中間の砂丘は弥生時代、海岸の砂丘は弥生時代後期以降の形成とみられる。この結果として、宮崎市北部の平野は、北部を丘陵・台地に東部を砂丘にふさがれて排水不良の湿地帯と化し、その排水は後の新別府川の形成によってなされることになる。また、順次形成された砂丘列はその間に二列の低湿地帯を挟み込み、かつてのラグーン(潟湖)の後を示す池が点在している。これら三列の砂丘は、最大海進以降の若干の海退に伴って発達したものということができるが、その間なだらかに海退が行われたのではなく、海面の低下と停止(もしくは小海進)が交互に継起したことを物語っている。最大海進時(約六千年前)の海面約8メートルから、約三千年前の4メートル、約千六百年前の1メートルへ段階的に低下しており、この海退の過程で砂丘の形成が進んだと考えられている。
 再び上部砂礫層を載せる平野面に戻ると、一連の海退過程において、大淀川は次第に現在のような南流のコースを取るようになった。これに関しては、北部臨海からの砂丘発達によって北部では排水不良の環境となって主流路を形成することが困難になってきたことが一つ、さらに全般的な海面低下によってかつては全面に広がる広い氾濫原を形成していた上部砂礫層平坦面が、次第に段丘化していわゆる中位の沖積段丘となってきたことがあげられよう。これによって本流は次第に乱流の状態から南流一本化の傾向となった。また、大淀川そのものも海退によって若干の侵食が復活し、谷を掘り下げ主流を固定化する方向に向かった。現在の大淀川の断面をみると、河床は、上郡砂礫層を半分程度削り込んでおり、明らかに河床の方が平野面よりも低い位置にある。これによって溢水時はともかく、平時は流れが現在とほぼ変わらない大淀川の流路が確定したといえよう。
 宮崎平野の沖積面においては、この中位段丘面の面積が大部分を占める。標高9メートル以下の低地であるが、次に述べる低位面とは明かな段差があり、旧河道、後背湿地などを除くと概して水はけがよく、洪水時も比較的浸水の被害を受けにくい平坦面であるといえよう。このことは、たとえば宮崎平野における溜池分布からもある程度推察することができる。宮崎平野における溜池の分布密度は降雨
量の少ない瀬戸内海地域のそれにほぼ匹敵するといわれる。宮崎の降水量からすれば少々考えられない状況であるが、それはこの中位面が比較的高位にあって水利の便に恵まれない条件が基本的に存在することが原因である。また、多量の水を常に流している大淀川の水も、既に述べたように中位面からみれば低い位置にあり、これを水利に利用するとなればかなり上流に井堰と用水路を設ける必要があり、当時の宮崎平野の歴史的社会状況はとうていこれを実現するだけの力がなかったといえよう。しかし、これに頼らずとも、平野に隣接する台地や丘陵地の末端部の小河谷に溜池を造るにふさわしい適地が多数存在していた。これらの溜池を多数築造することによって、宮崎平野の水田は潅漑可能となり、時折生じる干ばつにも対応することができるようになったのである。
 沖積陸成層は地表面を構成する地層で、数メートル前後の層厚である。既に陸地となって後の河成堆積物、湿地の堆積物、砂丘地では若干の風成推積物が載っている。微高地においては砂層、湿地においてはシルト・粘土層が卓越する。中位面、低位面とも現在は人工堤防によって洪水、氾濫の危険から免れているが、人工的な堤防の築造は近代以降であり、それ以前は河川の氾濫は水位の上昇につれ平野一面が水に浸かったのである。古くから存在した集落はこれに対処するため平野上の旧自然堤防などの微高地に集落の立地を求めたのである。この陸成層の堆積については、既に人類の土地利用が始まっており、これとの関わりにおいて堆積層の分析が必要となる。
 沖積層の低位面は面積的にはさほど広くない。低位面は海面低下に応じて活発となった側方、下方侵食の結果形成された現氾濫原で、大淀川に沿い狭小な平坦面を発達させている。堆積物はおもに砂層で、大淀川の乱流の結果形成された自然堤防や旧河道などの地形を含む。いわば、人工堤防築造以前の大淀川の広い意味での河床といえ、現在は堤防によって守られてはいるが、かつては増水時には常に浸水していた場所で、潜在的な洪水の危険の大きい地区として注意が必要である。具体的な場所としては、宮崎市有田から跡江集落よりも北の大淀川堤防までの間の自然堤防状の区域や大淀川東部を並行して流れる小松川以西の低地などがある。とくに後者は、既に市街地化して人口密集地であるので非常時の安全対策が十分に望まれる。

  宮崎平野の地盤変化

 宮崎平野の最大海進時の標高については、既に述べたように約8メートルである。この数字は日本の平野においては最も高いレベルにあり、一般的に縄文海進としてあげられる数値の数メートルと比較すると、約5メートル前後の開きがある。また宮崎平野内でも、青島付近の九メートルから一ッ瀬川北方鬼付女川付近で約6メートルと南北でかなりの差がある。このような差異はもちろん海面変動では説明できず、この当時以来地盤変動が存在したことを示すデータとして注目される。5メートルという数値は約1ミリメートル弱/年という隆起活動を意味しており、その速度は宮崎平野南部で高く北部に向かって徐々に緩慢となる様相を呈している。これはまた洪積台地の高度分布ともまた共通する側面を有しており、第四紀を通じて隆起傾向にある西南日本外帯の特徴をよく現しているといえよう。ただ、この隆起活動が日向灘沖合いで発生するM6〜7クラスの中規模地震と直接の関連があるかどうかについてはまだよく確かめられてはいない。

掲載号:みやざきの自然 8号 '93-11

制作:2005.04.18
修正:2006.11.07