宮崎の地理(3)
横山 淳一
(宮崎大学教育学部助教授)

第3章 第四紀の地史

第1節 第四紀

 第四紀というのは、今から約200万年前から現在に至る、最も新しい地質年代を指す言葉である。200万年というと、非常に長い年月のように感じられるかもしれない。たしかに、人の寿命からみれば、悠久の時間と言っていい。しかし、見方を変えて、地球の誕生の46億年前や宮崎県最古の岩石の形成年代の約4億年前というような時間経過からみれば、それぞれたった2300分の1、200分の1という僅かな時間であることも事実である。また、新生代という大きな時代区分の6500万年の内訳からしても、第四紀はその最終の200万年を占めるのみで、残る大部分の6300万年は第三紀に含まれる。このように、第四紀は地質学的には決して長い時代区分ではないが、章のタイトルに取り上げたように重要な意義をもっている。
 そのいくつかをあげれば、この頃より地球環境が寒冷化に向かって急激に悪化したこと、それに関わって人類の祖先が誕生したことがある。また、この200万年という時間は、日本のような地殻変動の激しい地域の地形形成にとっては、十分な影響を与えることのできる時間でもある。さらに、我々が過去に向かってさかのぼり、その時代を知ろうとするとき、最も障害となるのは、時間そのものによる証拠隠滅である。第四紀は我々にとって最も近い地質年代であり、いまだ解っていないことはたくさんあるが、それでも、それ以前に比べればはるかにその状況を詳しく知ることができる。時代区分が、新生代第三紀の6300万年、第四紀の200万年ときわめて不平等に区分されている一つの理由もここにある。
 約200万年前と大ざっぱにいっているが、最近では年代測定の技術が進歩し、それぞれの資料での差異はあるものの、より正確には約160万年前から180万年前を第四紀の始まりと考えていい。ここでは、とりあえず約180万年前をその始まりとする。この第四紀は、さらに、更新世(180万年前〜1万年前)と完新世(1万年前〜現在)に細分されている。

第2節 第四紀の自然環境

 第四紀が設定された理由は、すでに述べた著しい地球環境の変化である。第三紀は全般として暖かく穏やかな環境が長く続いたといわれる。こうした中で、新しい地上の覇者として、爬虫類に替わって哺乳類が著しい進化を遂げたことは想像に難くない。第四紀は、これに対して、寒冷な気候が現れ、生物はもちろん、地形形成の点でも大きな影響力を与えた。この原因については、まだ確定的ではないが、地球の自転、公転の不規則な変化(きわめて滑らかではあるが、長期的にみて僅かな回転周期や軸の変動がある)や、地球上の海陸の分布の変化がこのような寒冷気候を生み出したという説が有力である。
 このようなわけで、第四紀は「氷河時代」とも呼ばれることがある。ただ、「氷河時代」というと、いくつかの点で誤解を招きやすいので、少々補足させていただく。現在話題になっている地球温暖化現象への懸念は、今が「氷河時代」だとすると矛盾するのではないかという指摘があると思う。今は確かに気候的には温暖な時期である。しかし今の暖かい気候は、第四紀の周期的に変動する寒暖のサイクルの一つの短い暖の期間にすぎない。とはいっても、自然のサイクルで、地球的規模にわたって暖まったり、冷えたりするわけであるから、最低数万年の期間はある。現在の暖かい気候(この時代を完新世という)は、一万年前に始まったばかりである。この間に人類は著しい文明を発達させて、その結果莫大な熱エネルギーとCO2を大気中に放出するという状態に到達した。このまま続けば、来世紀には摂氏数度の気温上昇が見込まれるという。「たった数度」でしかも来世紀のことをなぜ今から大騒ぎするのか、と考える人も多いかも知れない。しかしこの数度が問題なのである。この僅かの温度上昇によって、極地の陸上の氷が一部融け始めるのである。今すべての地球上の氷が融けるとどうなるかという試算をすると、海水面が約60m上昇するという。宮崎市でいえば、平和台の塔の基部が波打ち際になるということを意味している。もちろんここまで極端なことではなく、約数mまでの海面上昇を予測しているのであるが、これでも、放置したままだと、世界の臨海の主要都市や低平地は水没の危機にさらされることになる。日本での人々の生活舞台が、狭小な沖積低地に集中していることを考えれば、今から手を打っておかないと大変な事態になる可能性が大きいのである。さらに、例えばバングラデシュのように国土の大部分が低平な平野で、しかも、この先進諸国の大規模エネルギー放出とはほとんど責のない地域まで巻き込んでしまうことを考えればいっそう真剣に取り組む必要があろう。
 このように、地球規模における温暖化といい、寒冷化といっても実はそれを温度差で現せば、局地的には10度未満の変化があるが、全体としてはせいぜい摂氏数度程度の変動にすぎないのである。したがって、「氷河時代」とはいっても、現在よりやや気候が冷涼化するというのが、その実態なのであり、その当時でも熱帯はやはり熱帯であったのである。ただ、高緯度地方においては、もともと冷涼な気候帯であり、そこでの数度の温暖低下は気候および環境に著しい悪化をもたらした。それは、水循環における雨から雪への変化で、雪が夏でも融けてしまわず、毎年毎年堆積していき、ついに氷河にまで発達して、広く陸上をおおうという大陸氷河の形成である。こうなると、気温低下はさらに進み、すべては氷の下ということで、広い不毛の地域が広がるということになる。現在、大陸氷河が存在するのは、南極大陸とグリーンランドだけであるが、「氷河時代」には北ヨーロッパにも、北アメリカにも大規模な氷床があって、広く陸上を覆っていたのである。「氷河時代」という命名の由来はここに起因している。
 寒冷化→大陸氷河の形成→海水面の低下→陸地面積の増加という一連の経過を経て、氷期(「氷河時代」には寒暖の交替が幾つもあり、そのうちの寒の時期を氷期、暖の時期を間氷期という)には新しい陸地面が付加される。逆に間氷期には、温暖化→大陸氷河の消滅→海水面の上昇→陸地面積の減少となり、氷期に形成された陸地面は水没することになる。こうした海水面の変動を氷河性海面変動といい、その効果は全世界に及ぶものである。現在の海水面を基準とすると、最終氷期の厳寒期(今から約2万年前)には、約140mにも及ぶ海面低下があった。この140mといえ数字は、最終氷期(ヴュルム氷期)に、朝鮮半島と日本列島が陸続きになった可能性をも示唆するほどの規模のものである。この規模からすると、今日問題になっている温暖化現象の数mの海面上昇など、ほんの僅かな自然のゆらぎ程度でしかない。しかし、自然現象に、人類の影響がはっきり顕在化するようになったこと、このゆらぎでさえ現実化すると人頬に重大な結果をもたらすことが、大きな危惧を抱かせる理由である。
 海面変動が、地形形成に大きく関わってくることは、以上で明らかであるが、具体的にはどのようなプロセスが進行するのであろうか。海面と密接な関係がある地形というと、海岸地形(海食崖、砂丘、リアス式海岸、珊瑚礁……)がすぐ浮かんでくる。これらの地形が、海面変動のたびに、消滅、プロセスの中断、新規に形成を始めるなどの著しい変容を被ることはもちろんである。さらに、より大きな地形においても形成の営力が変化し、大きな環境の変貌を生じる。それは、いうまでもなく「堆積平野」の形成である。ここでは、堆積平野の形成メカニズムと海面変動の関わりについて述べる。

第3節 沖積平野 

 平野を大別すると、浸食平野と堆積平野とに分けられる。浸食平野は山地ないしは大陸塊が長時間の浸食作用にさらされた結果、次第に削られて低平になったものである。この形成過程はよく知られているが、これが形成されるためには、その間地盤が終始安定で静止していなければならず、日本のように地殻変動の激しい地域には存在しない。我々がふだん目にし、その上で生活を営んでいる平野は、すべて堆積平野である。堆積平野は、浸食平野とは逆に、山地や内陸部から運ばれてきた土砂が、海岸や湖岸に堆積して陸地化したものである。また、海底下に堆積した地層が、後の地盤の隆起作用などによって陸地化した平坦面もこれに含まれる。ところで、わが国の平野を代表して呼ぶ言葉に「沖積平野」がある。沖積平野が堆積平野のグループに属することはいうまでもない。沖積平野は堆積平野のうち、最も新規に形成された平野面で、今もその形成作用は継続している。もっと厳密にいえば、完新世(かつては沖積世という呼称が一般的であった)以降の改まった海岸線に対応して形成された平野面ということになる。
 最終氷期(ヴュルム氷期)から、完新世にかけての気候変動と沖積平野の関わりを中心にここでは述べてみたい。ヴュルム氷期は、既に述べたように、今よりはるかに海面が低下した状況がほぼ6万年続き、その最盛期には今より海岸線は約140mも低下(約2万年前)した。これにともない、当時の海岸線は今よりはるかに沖合に位置していたことになり、当然河川の流路も延長されて、今日海中に没してはいるが、当時の河床の跡が海底化に刻み込まれている。例えば、大阪平野を流れる淀川では、古淀川の流路は、大阪湾で、西から旭川、吉井川(岡山)を、更に下って紀伊水道で紀ノ川(和歌山)、吉野川(徳島)などを合流して、ようやく太平洋に注ぐという大河川を形成していたのである。堆積平野の形成における主要営力は河川による堆積作用であり、それは主として河口部での三角州の発達として現れる。したがって、古淀川の例でいえば、瀬戸内海はもちろん、紀伊水道までを流域とし、その河口部でデルタ地帯を形成していたことになる。この状態の期間が万年単位の期間継続したわけであり、より大きい水系をなしていたこともあって、氷期の晩期に形成されていたと考えられる堆積平野の規模は、今の大阪平野のそれをはるかにしのぐものであったことが推測されるのである。残念ながら今は海中に没して、その姿を見ることはできないが、海底下にはその当時の平野面が平坦なまま、その姿を留めているはずである。淀川の例で紹介したが、すべての海に注ぐ河川はこうした経過をへてきている。こうして海中に没したかつての平野面は、大陸棚と呼ばれて今日の大河川の沖合には水深約200m以内の広い浅海域が存在しているのである。大陸棚水域がよい漁場であるのはよく知られているが、同時にこの地形が陸からの堆積物で構成され、かつては陸地面であったことが大陸棚領有などの根拠にされている。
 このように氷期に形成された堆積平野は、1万年前の急激な地球環境の温暖化によって、海中に没してしまった。内陸に移動した新しい海岸線が堆積平野形成の最前線となったのである。この海岸線は、氷期のかつての河川水系でいうと、ほぼ中流域に相当する。中流域は、ふつう狭小な谷底平野があったり、扇状地が形成されていたりする地域で、平野面と山地の混在する地域である。そこが一気に臨海の河口部に変化したわけである。今でもそのような状態からたった1万年しか経過していない。わが国のように山地が基本的な地形構造のところでは、平野面が狭く小規模なのはこのためである。また海岸線がいりくみ、海岸といえばリアス式という箇所が多いのも、海岸が上昇したときの沈水した地形がそのまま今日まで持ち越されているからである。沖積平野が形成を開始して約1万年というのは、このようにして新規まきなおしで一から始まったことを意味しており、その点ではできたてのほやほやの地形面であるということができる。洪水の危険にさらされたり、地震の揺れが大きく被害をもたらしたりするのも、地形面として誕生したばかりで形成作用が続いていること、まだ十分に固結化していないことに起因している。いわば、自然の新しい土地造成地と言っても過言ではない。

第4節 沖積層

 地質上最近年のこの沖積平野の形成過程も、単調な堆積作用がずっと行われてきたのではない。それは、沖積平野を構成する地層を調べると明らかになる。沖積平野の地層を一般的に述べると、下から、基底礫層、下部砂層、シルト・粘土層、上部砂層、陸成層となり、日本の代表的な平野では、その全体の厚さは約60〜70mにも達する。短い期間とはいえ、日本は山がちで川の傾斜が大きく、すぐ海に至る、モンスーン地帯に属して多雨地帯であるという条件のもとで、これだけの堆積を成し遂げたといえよう。
 基底礫層は、正確には、沖積平野に含まれる地層ではない。しかし、どの平野でもその最下部には、丸みを帯びた厚さ10〜20mの礫層がよくみられることから、沖積平野と関連して述べられることが多い。この礫層は、更新世末期の海面低下時に、この河川の中流部の河谷にばらまかれた河成堆積物で、それら小石の平均の大きさは直径2〜3 cmである。最終氷期に形成された堆積平野の最上部(地表面)ということになる。河川を中流域にまで遡ると、その河床を構成する物質は、砂をまじえた円礫が主体となり、河口部の砂や泥ばかりの堆積物とははっきりと異なっていることからも推測できると思う。河川による主な平野堆積物は一般的にいって、上流より下流に向かって礫、砂、シルト、粘土に変化していって、粒径がだんだん小さくなるということを覚えていてほしい(シルトというのは砂と粘土の中間の大きさの粒子を意味する言葉である)。
 下部砂層は、厚さ10m前後の泥、腐植質を含む地層で、既にこの時期には河口及び、その沖合いに位置していて、三角州的な堆積環境であったことを示している。かつての河床を盛んに埋め立てて、埋積谷にしつつあった。ただ、後の堆積層にも共通するが、どの河川系でもこの沖積作用が活発に始まったわけではない。砂を中心とする細かい粒子が静かに堆積するためには、内湾性の入り江の存在が必要である。河口が直接外洋に面する河川では、運ばれてきた物質がすべて沖にさらわれてしまい、堆積を可能にする条件を備えていないということができる。逆に大平野の川口に大きな湾入を持つ場合が多い(例えば筑紫平野、大阪平野、濃尾平野など)のは、この理由による。
 続く堆積層は、シルト・粘土層である。厚さ約20mぐらいで、海棲の貝化石を多く含んでいる。それまでの砂を中心とした地層から、より細かい粒子の堆積へと変化したわけである。この変化は、もちろん堆積環境が変わった結果生じたものであり、それまでの河口付近での堆積から、更に沖合いでの堆積へと移行したことを意味する。同じ位置がそのように突然移動することはありえないので、この変化は当然海水面の変動がこの時期生じたということになる。この海面変動は、海面が上昇する海進で、その規模は2〜3mといわれている。この原因はいうまでもなく、気候が更に温暖化したことによるもので、この時期をヒプシサーマルといって、後氷期中最も暖かい時代であったとされている。既にこの頃日本では、縄文時代にはいっており、河谷に沿い内陸部まで海水が入り込み、そのような海水と淡水のいりまじった環境に生息する無数の貝類(ヤマトシジミ、ハマグリ、カキなど)を、主要な食料源として採取したことが、今日各地に分布する貝塚遺跡から知ることができる。海岸線も、例えば関東平野では、埼玉県栗橋町(同県北東部)、大阪平野では、門真市や東大阪市の東部まで入り込んでいた。こうしたことにちなんでこの後氷期の海進を日本では縄文海進と呼んでいる。またこれらの生物遺骸から、この時期の年代を測定すると、今から約8000〜6000年前という数値になる。シルト・粘土層は、このような環境下、すなわち河口から更に海よりの浅い静かな海底下に沈澱した河川運搬物質である。これを今、目で見ようとすれば、例えば、筑後川が流下する有明海の干潟を観察すればいい。引き潮の際に現れる広い泥の海が、まさしくこのシルト・粘土層そのものである。
 ところで、今日の沖積平野は、このシルト・粘土層の上に、上部砂層や沖積陸成層が載っているわけであるが、この隠されたシルト・粘土層が、平野の土地利用や災害などの点で極めてやっかいな問題を引き起こす原因となっている。有明海の干潟にみるように、これは泥からなる地層であり、しかもまだ固まっていない。地層の固結化から岩石化という意味では、第四紀という時間スケールはまだ十分ではない。第四紀以降に形成された地層は、一部の火山性のものを除き、すべて未固結でその意味では不安定な地盤なのである。とりわけ沖積層は既に述べたように、急速に短い期間で堆積したために、安全な地盤という意味ではまったく信頼性に欠ける地層である。その中心の悪役ともいうべき地層が、このシルト・粘土層ということである。極端にいえば、僅かに固い地表部の下には、柔らかくてぶよぶよしたゼリー、プリン状の堆積層が、約20mもの厚さで存在しているということなのである。このことは、実際のボーリング調査でも明らかになっていて、この地層に達すると、力を加えないでも試掘用のパイプがどんどん沈んでいき、まるで底無し沼のような振る舞いが見られるのである。
 具体的に、この地層がどのような悪影響を及ぼすのかを二つばかりの例で簡単にみてみたい。まず第一は地震の場合である。かつての関東大震災の、近くは、サンフランシスコ、メキシコシティの地震の被害を見ると、倒壊家屋の割合が極めて高い地区が、沖積低地に集中しているということである。これは、下部の軟弱地盤(シルト・粘土層)のために、地震の揺れが増幅したり、より長く続いてなかなか収まらなかったりして、その結果建物を損傷するということなのである。逆に、東京の山の手と呼ばれるところは、地層が更新統(洪積台地)のため比較的安定で、関東大震災での倒壊率は極めて低かったのである。第二は、地盤沈下の問題である。近年は地下水汲み上げ規制が徹底して収まりつつあるようであるが、かつての、東京、大阪など臨海部一帯は、年々地盤が下がって生活を脅かされるほどの状況になった。雨のたび毎に浸水する、建造物に段差ができるなどである。これは、工場、ビルなどの用水をシルト・粘土層からの地下水に求めたためで、産業が盛んになるにつれて状況は更に悪化した。もともとこの地層は、水を含んでその容積が保たれているので、その水を抜くとスポンジのように体積が減り、それが地盤沈下につながったのである。災害の点では、公害であり、なかなか地盤沈下が収まらなかったのは、ただの用水という経済的利害がからんでいたためである。今でも、いったん下がった地盤は元には戻らず、いわゆるゼロメートル地帯として、堤防に守られてはいるものの、潜在的な危険地帯であることには変わりがない。
 シルト・粘土層の上部は、上部砂層で、厚さ10m前後の細砂、中砂からなる。堆積粒子の変化は、いうまでもなく、海面変動に連動しており、この時期の僅かの気温低下とそれにともなう海退である。貝化石を含み、海浜性、三角州性の堆積物と考えられ、この若干の海面低下によって沖積平野の陸地化は急速に進んだ。海岸線の変化はこの僅か数mの垂直量変化に対して、関東平野では約50 kmもの前進があった。歴史時代に入っても、この僅かの海退は、新田などの干拓事業に良好な環境を生み出していたといっていい。ところで、地震の際に地下の砂が水と共に地表に吹き出したり、建物を倒壊させる原因になったりする、砂の液状化現象が近年よく知られるようになった。砂層はもともと安定な地盤とされ(砂上の楼閣という言葉はあるが)、それを基礎として中層以下の建造物は建てられてきた。しかし、砂層のなかでも、高い地下水面に位置する場合は、その中に含まれる水が揺さぶられる結果、流体となって地耐力が急に低下、倒壊を引き起こすのである。それらの多くは後述の陸成層中の砂層や人工的に埋め立てられたところの砂である場合が多く、この上部砂層中の砂は例えば砂丘、砂州、自然堤防など比較的安定である場合が普通である。
 陸成層は、現在の地表を覆う、平野が陸地化した後の堆積物からなり、数千年前より今までに形成された最も新しい地層である。厚さ5m前後で、河成の氾濫原堆積物からなる。自然状態で年々繰り返されてきた河川の氾濫によって堆積したもので、その構成物質は、砂、シルト、粘土などがお互いにいりまじり、腐植物を多量に含んでいる。洪水というと、それによってもたらされる被害のみが取り上げられ、逆にそれによって我々の生活する平野面が創りだされてきたということを忘れがちである。陸成層中にみられる地形は、河川の流れによって造りあげられ、そのため極めて高低差が小さく勾配も緩やかなのが特徴である。これを微地形と呼んでいるが、平坦なデルタの中に、自然堤防、後背湿地、旧河道、砂州などのさまざまな地形面がある。これらは、それぞれに性質や高さが異なり、それに伴って、土地利用も変わってくるべきものである。現在はほとんどの河川が人工堤防で守られ、どのような土地利用も可能ではあるが、本来は洪水常襲習地帯であったこと、この開発が大規模に進み始めたのはようやく近世になってからということを忘れてはならない。

第5節 洪積台地

 以上は、代表的な沖積平野の下流部の堆積過程を一般的に述べたものである。ほぼ一万年かかって、現在の状態に達したわけであるが、これを逆にさかのぼると、それ以前の更新世中に、今と同じような温暖期(期間はもっと長く数万年以上)があり、その間に形成された堆積平野面が存在していてもよさそうに思える。また、当然寒冷期も一回きりではないので、それぞれの寒冷期に応じた低い海面に従って、今は海中に没しているが、堆積した平坦面が存在していてよさそうである。しかし、少なくも日本では、現在の沖積平野にそのままスムーズに連続するかつての堆積平野面は知られていない。もしそのような平野が存在していたなら、軟弱な地盤に悩むこともなく、また、広大な平野が開けていて、山国という日本の国土の狭さを感じることもなかったであろう。けれども、リス−ヴュルム間氷期(現在の一つ前の温暖期)に形成された平野面が存在しなかったということではない。この間氷期あるいは更に昔の温暖期に形成された堆積面は、あるものは現在の平野より一段と高いところに、またあるものは現在の沖積平野の下部に埋積された地層として位置しているのである。沖積平野を見おろす高台、これを洪積台地(海岸段丘)と呼び、平野から台地への登りには必ず急勾配の段丘崖があって、地形的に断ち切られていることがわかる。宮崎平野といい、関東平野といい、「平野」と名づけられている地形は、比率はそれぞれ異なるものの、この洪積台地と沖積平野を合わせたものの総称である。なぜこのようにかつての堆積面の高度がさまざまに変化したのであろうか。これまでは、平野の形成過程として、海水面を常に基準としてきた。それは河川の浸食、運搬、堆積の三作用が海面を基準として行われるからにほかならない。しかも、それぞれの温暖期、寒冷期の海水面がほば一定の水準で上下したことも明らかになっている。
 リス−ヴュルム間氷期の終わりが7万年前も昔であってみれば、別の視点から地形の変動の要因を分析してみる必要がある。既に述べているように、日本列島は変動帯に属し、極めて不安定な陸塊である。地質学的にみれば、常に動いて止まない大地の典型的な見本である。7万年前の海岸(平野のデルタの先端としよう)が今でも同じ位置にそのままあるということは、少なくも日本では殆ど期待し難いことなのである。ある海岸は隆起し、別の海岸は沈降し、今ではさまざまな高度をとるに至ったのである。一年に0.5mmの隆起でも、7万年経過すれば、標高35mにもなる。こうして、それぞれの地域の隆起速度に応じて、より昔の堆積面ほど高い位置を占めることになる。また、それぞれの台地面の形成の間には必ず寒冷期がはさまれるため、その間は浸食作用を受け台地面が分断されたり、縮小させられたりということも生じる。台地面をわけて、高位面、中位面、低位面などと呼ぶことがあるが、それは形成年代の新旧や地盤の隆起作用をはっきり示してくれる物差しでもある。年代的には、高位、中位、低位の順に古く、高位段丘よりも過去のものでは、はっきりした段丘面というより丘陵状を呈しているものも多いのである。前記で仮定した標高35mの段丘面は最終間氷期の堆積面であるので、いうまでもなく低位のそれで、最も新鮮な台地面ということになる。
 洪積台地で最もよく知られているのは武蔵野台地である。この形成過程は、これまでに述べてきた寒暖の繰り返しと地盤の隆起によるものであることはいうまでもない。更に加えて注目しなければならないのは、それら台地面上を広く覆っている関東ロームと呼ばれる火山灰土壌である。第四紀も前代に引続き火山活動が活発で、このような大量の火山噴出物が全国各地に分布している。とりわけ南九州におけるそれは、規模の大きいことと、火山そのものが広い台地面を形成したことで極めて注目に値するものである。いうまでもなく、これは「シラス台地」のことで、自然環境を一変させるほどの火山の大爆発によって形成されたものである。また、霧島や阿蘇火山が本格的な活動の時期に入ったのも第四紀になってからである。
 台地面がかなり広範に各地にみられるということの背景には、第四紀のもう一つの特徴としての、地殻運動の活発化があげられよう。今日の日本を形づくる脊梁の山地は、壮年期の険しい山容を示している。こうした山並は、第四紀に入ってからの著しい隆起作用によって、今日のような姿になったと近年では考えられるようになっている。もちろん、九州山地もこの例に洩れず、第四紀を通じての総隆起量は、1000mをはるかに越えるものと推定されている。

(付記)
今回は第3章として、「宮崎の地理」から離れ、第四紀の解説を中心に述べています。それは、現在の地形を理解するためには、それがつくられた時代背景をおさえておく必要があると考えたからに他なりません。宮崎の個性ある地形もそれを造る自然の力という点では、他の地域と全く同じ作用が働いており、それがどのようなものであったかを知って欲しいと思ったのです。それと、現在(第四紀)が地史上でも極めて特異な激動の時期であるということも書く必要があると考えました。次回はまた「宮崎の地理」に戻って、第四紀の宮崎の地形発達史を述べていく予定です。

掲載号:みやざきの自然 3号 '90-8

制作:2004.8.18
修正:2004.12.22